スリムにする(ふつうエッセイ #404)

やや冗長な文章があったときに、「もう少しスリムにしてください」といったコメントをすることがあった。

あくまで一般論だが、冗長な文章よりは、短いものが好まれる傾向にある。リズム良く読むことができるからだ。

以下の2つの文章を比べてみると、一目瞭然だろう。

一時期に比べると音声配信ブームは一段落し、今も続けている人は少なくなった。これくらいの雰囲気が、ラジオにはちょうど良い。YouTubeのように稼ぐためのメディアではない、メインストリームにならない立場をラジオ自らがわきまえているように思う。

喋りかけること(ふつうエッセイ #403)を、句読点多めVerに一部改変

一時期に比べると音声配信ブームは一段落し、今も続けている人は少なくなっているが、これくらいの雰囲気が、YouTubeのように稼ぐためのメディアではない、ラジオにはちょうど良いと思うし、そんなメインストリームにならない立場をラジオ自らがわきまえているのではないか。

喋りかけること(ふつうエッセイ #403)を、句読点少なめVerに大幅改変

*

だが問題は、それを「スリム」という体型のあり方で表現することの是非だ。

「この段落、もうちょっとスリムにリライトできませんか?」。それは冗長さを排することで読みやすくなるということだけど、言外にスリムであることを過度に評価していることになりやしないだろうか。

知らず知らず、ルッキズムに囚われてしまっているような気がして、背筋が急に寒くなる。

こういった表現を、ひとつひとつ潰していきたい。「言葉狩り」と揶揄されることもあるけれど、言葉を生業にしている立場からすれば、言葉の節々に無頓着でいることのリスクは計り知れないと思うのだ。

「イケメンだね」「かわいいね」

もはや、褒め言葉でも何でもない。言われた側も扱いに困るような言葉を投げ掛けるべきでないのは、もはや自明のことだろう。

では、他人をどう評価するのか。

その問いに対して答えはすぐには出せない。けれど、軽々しく他人を評価することが適切かから考えた方が良いように思う。(評価そのものを否定しているわけではないけれど)

言葉と折り合いをつける。

その終わりなき旅は、未だ途上でモヤモヤとくすぶり続けている。