肉屋、魚屋、本屋(ふつうエッセイ #379)

「〜屋」という言葉は、「軽蔑、または自嘲の意を込めて用いることがある」と聞いたことがある。

何の気なしに「〜屋」と書くと、校正段階で修正を要請されることがあるらしい。だから肉屋は精肉店、魚屋は鮮魚店、本屋は書店として表記するのが「正しい」とされるようだ。

ここで僕は、いやいや「本屋と書店って、全然違うだろう」「むしろ書店でなく、本屋というべきシチュエーションってあるよね」と言いたいわけではない。日本語の繊細な表現についてナショナリスティックに語りたいわけでもない。

どちらかといえば、「〜屋」を「〜店」と言い換えようと試みてきた執念のようなものに感心してしまうのだ。花屋は生花店で、八百屋は青果店で、古本屋は古書店だ。地上げ屋、ダフ屋のような言い換え不可の例外もあるけれど、「そのままでも良いじゃん!」というツッコミに負けず、言い換えを試みてきた先人がいたわけで。どうやって日本語が発明されていったのかという過程にはかなり興味がある。

むしろ最近は「〜店」という言い方をしないことも増えている。編集プロダクションとか。IT企業だって「〜店」という言い方はしない。店というと「見世」でもあるわけだから、そもそも「見世」じゃないじゃんという業態の違いなのかもしれないけれど。でも、横文字需要ってありそうですね。

でも経営セミナーとか行くと、「あなたは〜屋さんですか?まずはそれを定義しましょう」なんていう質問から始まったりする。アナログな「〜屋」が都合良く利用されたりするのは、なんかちょっと嫌だなあという感覚もあって。「僕は何者でもないですよ」なんて言えないのは、当人がちゃっかり経営セミナーで何かを得たいという下心があるからなのかもしれないなあと。

仕事をほとんどせずに、妄想ばかりが膨らむ三連休だったのでした。