電車の中で(ふつうエッセイ #302)

映画に関するWebサイトを、新しくリリース予定だ。

そのために4月頃から準備をしていて、それ以前に比べると、かなりの量の映像作品もチェックするようになった。

僕はたぶん、映画マニアにはなれない。もともと凝り性ではないというのもあるけれど、映画マニアは「本当に」映画が好きなんだと思う。それは僕にとっての読書で、僕は呼吸するように本を読み続けることができる。「ずっと本を読んでいて良いよ」と言われたら、どれだけ幸せだろうか。

一方で、浴びるほど映画を観続けることは、できそうにない。映画は好きだけれど、いまのようなペースでの映画鑑賞は身体を疲弊させてしまう。僕にとって映画は、「ほどほど」の距離感で楽しむものなのだ。

……とはいえ、やっぱり首謀者として映画のWebサイトを企むにあたり、ある程度、映画のあれこれをキャッチアップしていないといけない。すべてのシネフィルを満足させることはできないが、ひとりでも多くの人に読み応えがあると感じてもらえるテキストを作りたい。「1%でもクオリティが上がるなら」ということで、関連作品を中心にチェックしている次第だ。

そんなスタンスで映画に接していると、時間の使い方は変わらざるを得ない。

例えば電車移動。これまでは読書時間に充てていただけれど、いまはだいたいスマートフォンで映画を観ている。

電車に乗ったら、スマートフォンを取り出して映画を観る。劇場のスクリーンに比べて、手元の画面は小さすぎる。イヤホンも安物だ。それでも限られた時間、集中して作品を眺めている。

もはや修行だ。

電車の中で、せっせと英単語を学んでいた頃に、感覚としては似ている。違っているのは、一言一句を憶える必要がないこと。そういった意味では気楽な修行に思えるかもしれないが、これまで社会に出てきた膨大のエンタメ作品を追っかける行為は、大変というか、無謀というか。終わりがない。

終わりがない修行。

まあ、修行とは、そういうものなのかもしれない。

そういう生活が「ふつう」になっているのだけれど、それが僕の「やりたいこと」なのだから仕方ない。しばらくは、とことんやるつもりだ。