エッセイは書くものなのか、書かされるものなのか(ふつうエッセイ #191)

もちろんエッセイは書くものだけど、「書かされる」ように言葉が継がれていくような感覚を持てることがある。

キーボードを打ちながら、「こうやって、こう書こう」と頭で考えながら書いているテキストは、なんだかガタガタしていて、滑らかさを失っている。大きめのサイズの服を着ているようで、少し居心地が悪い。

頭に浮かぶ文字を拾い上げるように、あるいは自分の気持ちに忠実なままで綴る文章は、もはや僕の身体を通り抜けてしまっている。文章は自ずから立ち上がり、瑞々しい表現に溢れている。

ただし、構造はグラグラなままだ。至るところに論理矛盾も抱えている。

なので、書かされるようにテキストを書き上げ、それを推敲しながらテキストの体裁を整えていくというプロセスが理想というわけだ。ただどちらかを選べと言われたら、僕は迷わず「書かされる」ように書く作業を選択するだろう。身体の中に格納されている記憶を引っ張り上げて、テキストとして晒してしまう。それは危険と隣り合わせだが、そういったhonestな文章は、心を強く打つものになる。(少なくとも、僕自身には)

だから、今日も書く。

書けないときは苦しい。でも、目を瞑って、何か引き出せないか最後まで粘ってみる。搾りカスのような何かであっても、とりあえず晒してみる。中途半端で、他人さまに読んでもらう内容ではないかもしれない。それでも構わない。

だって、僕はいつの日か会えるであろう、たった一片の奇跡を信じているのだから。そうやって文章に臨んでいるのだ。