計算通り(ふつうエッセイ #298)

「全部、計算通りだったんですよ」

ちょっと自慢げに言われたりすると、それまでフムフムと話を聞いていたのに、一気に興醒めしてしまう。それは僕の性格の悪さだと思うが、「すごいですね!」って言われたいのかと訝しんでしまう。

きっと、そういうわけではないのだ。その人には立派な実績があり、その場における称賛なんて必要としていないはず。

そう気分を取り直して、再度、話者に集中する。フムフム。どうやら「計算通り」という言葉には、再現性という社会の要請が背景にあるようだ。

たまたま上手くいった。

それでは、そのプロジェクト以外で応用することはできない。コンスタントに商売していくためには、成功の要因を言語化し、再現できる形で伝えていかなくてはならない。

だからこそ話者は「計算通り」という。計算、つまり何らかの公式があれば、その時々で変数を入れ替えれば、必ず成功に導くことができる。

すごいですね!

ぜひ当社の事業で、コンサルティングをお願いします……なんてね。

*

まあ、言い分は分かる。

その人なりの勝ちパターンというか、成功のためのセオリーなのだろう。

だが、成功のためのセオリーなんて、本当はどこにもない。

iPhoneがヒットした要因は、後付けで色々な専門家によって挙げられている。そのメソッドの納得度が高いからといって、誰もがスティーブ・ジョブズになれるわけではない。

時代が変われば傾向も変わる。通用していた公式が、全く通用しなくなることなんてザラにある。

言語化の努力はした方が良いけれど、そればかりに汲々としてはいけない。「公式」に執着するあまり、肝心の果実を逃してしまったら目も当てられない。

*

もちろん、すべてが直感で決まるとも僕は思わない。「マーケティング」という学問が成立しているように、スタンダードに役立つような「公式」は確かに存在するだろう。

それでも「公式」によって、人や社会が動くわけではない。

公式をあえてズラし、変化に合わせて対応する。それに携わる「ひと」の存在の心強さといったら!彼らがリスクを背負いながら進んで戦うならば、その組織は真の意味で強靭だ。

勝率100%なんてあり得ない。計算通りとは、「結果的に」計算が上手くいっただけなのだ。

計算は、もちろん大切だ。1+1は、どう足掻いても2にしかならない。積み上げをちゃんと試みながら、良い企画をうっていこうじゃないか。