光で描く(ふつうエッセイ #228)

東京都写真美術館に通っている。

「通っている」といっても、写真講座とかがあるわけではない。年間パスポートを購入し、定期的に東京都写真美術館に足を運んでいるだけだ。

企画展のたびに足を運ぶ。頭が凝り固まったら足を運ぶ。息抜きに足を運ぶ。

足を運ぶ理由は様々だけど、その空間には、いつも何か新しい発見がある。仕事に活かせるわけではない。でも、写真家が目指す世界観、写真の構図や光の具合などを見るにつれ、彼らの思考を、僕の生活にもトランスフォームできるような気がするのだ。

あくまで、そんな「気がする」だけ。

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いま、開催されている企画展は「TOPコレクション 光のメディア」というもの。

約36,000点の収蔵作品から、29名の著名な写真家による作品が厳選されている。「光」というものの解釈の多様さを実感することのできるコレクション展だ。

考えてみれば、いま、目の前にも光がある。

光があるから、僕らは何かを見ることができている。光がなければ、眼球を通して、物体は焦点を当てることができないからだ。

そういう意味で、四六時中、僕らは光に触れていると言える。それが具体的に目に映ることはないのだから、写真家が捉える光(らしきもの)の姿は新鮮に感じるのかもしれない。

光で描く──Photographの語源だ。

目の前にあるものを撮ることは、引き受けるという受動的な行為だと、僕は考えていたフシがある。もちろん写真を撮るのは能動的な行為だろうけれど、「撮るぞ!」と前のめりになるだけではダメなんじゃないかと考えていた。

「描く」とある通り、写真や写真家が定義されたときには、「写真を撮る」とは能動的な表現方法と見做されたのだろう。

写真が、一般的な記録方法になって久しい。色々なタイプの写真家がいることは承知しているけれど、そこにある主体性は、どんなアーティストも共有できる余白があるに違いない。

彼らの余白に手を伸ばすことができるだろうか。そんなことを試みながら、作品を鑑賞していく。1センチでも、1ミリでも、近付けたら光栄だと思いながら。