「優秀」かどうか、という見方(ふつうエッセイ #209)

人事をしていたとき、つい使ってしまっていた言葉として「優秀」が挙げられる。

当時は、いち人事担当者として会社の期待に応えようと必死だったこともあり、「優秀」かどうかという尺度で、応募者に向き合っていた。

もちろん「優秀」という言葉は曖昧なものであり、「いまの会社・組織にはどんな人が必要だろうか」と考え、具体的な人材要件をいくつか設定していたのは事実である。だが、もっと根本のところに蔓延っていた「優秀」かどいうかという見方は、著しく問題があったのではないかと反省している。

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たぶん「優秀」とは、それほど問題視されている言葉ではない。

時節柄、入社式などが行なわれているが「我が社に入社した優秀な諸君は〜」という感じで、至るところで使われている言葉ではないかと思う。

またコンテキストによっては言語使用として妥当なシチュエーションもあるだろう。

僕は新入社員だったとき、先輩社員と営業に同行したとき、普段は厳しい先輩から「今年うちに入社した優秀な新人です」と紹介を受け、とても嬉しく、先輩の言葉に応えようと発奮したのを15年経った今でも憶えている。

僕が問題視するのは、「優秀である」の裏には、「優秀でない」という存在を認めてしまうことだ。

そもそも「優秀」という言葉は、必ずしも能力をさすものとは限らない。極めて曖昧なもので、能力だけでなく行動特性なども包括した言葉だと言える。「プレゼン能力が長けている」は能力に近い言葉だが、「積極的に行動できる」は行動特性に近い。

例えば英語のリスニング力であれば、「高い」「低い」という意味がすとんと成立する。それは能力だからだ。

「いや、それでも優秀な人が必要なんですよ。積極的に行動できる、という行動特性を持った人じゃないと仕事が成立しませんよ」なんて声が聞こえてきそうだ。

では、何らかの事情によって「積極的に行動できない」という人はどうなるのだろうか。彼(彼女)は、採用に値しない=劣等として評価される人間なのだろうか。それは違うだろう。

もちろん営利企業であり、商品やサービスに責任を持っている企業であれば、事業を推進するために必要な人間を採用することは欠かせない。

だけど、それでも「優秀」かどうかという切り口で、人間を判断するというのは強烈な違和感を僕は抱く。(正確には、抱くようになった)

多くの人間が、地球という星で共生していくために、人を「優秀」かどうかで見極めようとするのは傲慢な行為ではないだろうか。

せめてできるのは「この人は、この部分がうちの要件と合致しないね」ということくらいだろう。「仕方ないけどお見送り」くらいの謙虚さがスタンダードになれたら、もうちょっと社会はやさしく、滑らかになっていくような気がしている。