誰しも普段よく使っている言葉のひとつに「おこなう」がある。
たいていの人が「行う」と表記するが、僕は必ず「行なう」と表記している。他社資料、編集物に関しては別だ。だいたい「行う」が好まれる傾向にあるので、その場合は自分のポリシーをへし曲げている。
文章を書く人にお馴染みの『記者ハンドブック』。
ここでも「『行う』と書くべし」と明記されている。まるで、そんなの当たり前だろうと言わんばかりに。
であれば「『行なう』でなく『行う』と書けば良いじゃないか」と思う人もいるだろう。
でも、僕は「行なう」と書きたくなってしまうのだ。「行なう」と書いた方が読みやすいだろうと個人的な理由によるものだ。
海外志向の編集方針を掲げているメディアの場合、「v」を「ヴ」とすることが多い。
雑誌『WIRED』日本版を例にとると、「ムーヴメント(movement)」「プライヴァシー(privacy)」「デジタルコンバージェンス(digital convergence)」といった書き方をしている。
https://wired.jp/article/vol44-editors-letter/
「行なう」の例と混同するのは乱暴だろうが、突き詰めて考えれば、個人にせよ法人にせよ、同じ「人」的な理由がベースになっている。
だからといって、「皆さん、『おこなう』は『行なう』と表記しましょう!」と僕が言いたいわけではない。文章を書くことを生業にしていない人からすれば、『行う』『行なう』どちらでも構わないはずだ。(混在するのは格好悪いけれど)
だから、このエッセイは、誰もどこにも連れていかない。
だけど時々「うんうん、そういう感覚分かります」と言ってくれる人もいる。また文章ではないけれど、特定の専門所作において似たような「こだわり」を有している人もいる。
彼らは、まぎれもなく同志だ。
そんな同志とともに仕事をしたいと思うのは、きっと自然な感情だと思うのです。
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さて今回のエッセイで、「ふつうエッセイ」が200本目となりました。
いつも読んでくださり本当にありがとうございます。引き続き、何の役にも立たない駄文を紡ぐエッセイをお楽しみいただけると嬉しいです。