雑になる人生(ふつうエッセイ #201)

認めたくないが、最近僕は、「折り合い」という言葉をよく使っている。

AとBがあって、それぞれが正しかろう論旨を持ち得ているとき、AかBかを安直に選べば衝突が起こってしまう。最初から妥協するわけじゃないけれど、どこかで最終的には折り合いをつけるだろうと思っている節はある。

ちょっと意味は違うが、予定調和というのも、そういうことかもしれない。

妥協でも、折り合いでも、予定調和でも何でも良いけれど、それらを繰り返していくと人生が雑になるのではないかという感覚がある。

ここで僕は、「雑」という言葉を決してネガティブに使うつもりはない。

雑誌だって、雑文家だって、雑貨屋だって、雑という文字が含まれている。雑という言葉には、何か良いものをごった煮するようなワクワクした響きもある。

ただ、ポジティブに振れ切れているかというと、そうでもない。

純度の高い人生は、それはそれで考えものだ。だけど、折り合いばかりを意識して、日々仕事を積み重ねていった先に得られるものは……そこに確信を持ってbetする気にはなれないのだ。

雑という事柄に対して、すでに「折り合い」をつけようとしているのに我ながら笑ってしまうけれど。

どうやって雑に向き合っていくべきか。雑に携わる人間として、そこにはこだわりを持っていたい。