エラーとは何か?(ふつうエッセイ #192)

テレビを観ていた4歳の息子に「エラーって何?」と聞かれた。

英語による幼児向け動画で、初めて出てきた単語なのだろう。どんな文脈で「エラー」という言葉が出てきたかは不明だが、しばし「エラーとは何か?」考えてしまった。

Oxfordの英英辞典をたどると、errorの類語表現としてmistake, inaccuracy, slip, howler, misprintが挙げられていた。

mistakeとの違いとして「Error is a more formal way of saying mistake.」とあった。

確かに日本語でも「ミスっちゃった〜」といったようにmistakeは軽く扱われる。あるいは「人為的なミス」というように、起こるべくして起こるというか、発生する可能性が多分にあるような状態を想定した言葉のように僕は感じる。

一方でエラーは、特定のプログラムによって制御される類の言葉ではないか。かなり高い確率で正しい処理をするものの、想定外の事由によってプログラムが不具合を起こす。「ミス」ではなく「エラー」の方が適した表現になる。

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こういったことを前提にして考えると、野球とサッカーは、根本的に異なる思想によって成立したスポーツだと言えるだろう。

野球ではエラーが使われ、サッカーではミスが使われる。

サッカー:人によるミスは前提で競技が成り立っている
野球:エラーは勝敗を分けるほどの深刻な「不具合」として見做される

やや大袈裟だろうか?あまりに野球が「機械的」に扱われていることに違和感を抱く方もいるだろう。(僕も本当のところは分からない)

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なぜ「その言葉」が使われているのか考えるのは、色々な学びになる。

近代言語学の父と呼ばれるソシュールは「言葉の意味は、他の言葉との関係と差異によって生まれる」と言った。

みかんは、みかんの名前をつけるために「みかん」と名付けられたのではない。それ以外の果物や野菜などと区別するために(「オレンジ」や「グレープフルーツ」や「いよかん」などと区別するために)、「みかん」と名付けられた。

野球のルールを作った人は、選手のミスを「mistake」とは見做さなかった。慧眼であり、野球というスポーツの本質を示す命名ではないだろうか。(逆にサッカーで、プレイヤーのミスを「エラー」と命名していたら、サッカーというスポーツの在り方は全く別物になっていただろう)

そんなことにニヤニヤしながら、こんな文章を駄弁っている。綴っているのではない。駄弁っている、という感覚だ。この駄弁りが、誰かに届くと嬉しい。