種のあるみかんは、種のないみかんよりも美味しい。
というのが暴論だとは自覚している。
けれど経験上、種のあるみかんには、フレッシュさと甘さが交差する味わいがある。控えめに言って最高だ。種を取り除く面倒さはあるけれど、その味は、生活に潤いと幸せを与えてくれる。
もちろん種のないみかんの方が食べやすいのは事実なわけで。きっと、種のないみかんで同じようなクオリティが出せないか、みかん農家は日々苦慮しているのではないかと推察する。
だが、今のところは、種のあるみかんの方が美味しい。種を取り除く過程で、何やら「うまみ」的なものも除かれてしまっているのではないか?そんな気がする。
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それでも、僕は種のないみかんの方が好きだ。
僕は一般の人たちよりも、かなりの量のみかんを食べる。
皮を剥き、食べる。みかんの房を割る動作は省く。とにかく皮をむいたら、即、口の中に放り込んでしまう。完全に食べ終わる前に、既に、次のみかんの皮は剥かれている。誰とも競うわけでもないのに、スピードへのこだわりは強い。
そして、これは誤解を招いてしまいそうなのだが……
僕は、種のないみかんの味が好きなんだ。
前述の通り、美味しいのは、種のあるみかんである。時々食べると幸せになれる。
しかし、あの味を、繰り返し食べることは想像できない。フランス料理を毎日食べることができないように、ほどほどの味の方がちょうど良かったりする。
だから、もしかしたら、種のないみかんを作る人たちは、種のあるみかんの味に追いつこうとしていないのかもしれない。味は良いが、毎日食べるのはしんどい。それはもはや、僕の知るみかんではない。
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何事も、クオリティを求めるのは大事なことだ。だけど本当に、そのクオリティをみんなが求めているのだろうか。
鮨職人の小野二郎さんは、とにかく最高の鮨をつくるために日々努力を怠らない。小野さんの最高の鮨を求める人は、後を絶たない。
だけど同じようにスシローやくら寿司も、お客さんのニーズに応える。とにかく腹いっぱい寿司を食べたいということもあるだろう。小野さんの鮨は腹いっぱい食べるには量が足りないが、スシローだったらいくらでも注文できる。ラグビー部の高校生なら、祝勝会はスシローに行った方が良い。
ちょうどいい、ということと「ふつう」は相性が良さそうだ。
何事も判断に迷ったら、種のないみかんを思い出すようにしよう。種のないみかんこそ、僕の原点なのだから。