誰かのような文章(ふつうエッセイ #432)

オリジナルでありたいという欲は、けっこう強い。

それは決して悪いことではないのだけど、模倣するのを極端に嫌がることもあって、存外他人の良いところを参照しないという悪癖がある。ただその辺りは結構わがままなもので、「あ、この書き方良いな」と思ったら、少しだけ真似したりする。要するに、自分が気に入るということがポイントなのだ。意識して「他人の良いところを取り入れてみよう」という気持ちには、なかなかならない。あくまで気分だ。

それってプロフェッショナルとしてどうなの?なんて思うけれど、プロフェッショナルのあり方は人それぞれだ。

まずは人の良いところを真似しよう、と主張する人もいれば、ガンガン好きなことに時間を費やすべし、とアドバイスする人もいる。

その差はかなり違うけれど、彼らの成功体験に基づいてた意見だということは共通している。

誰かのような文章を、僕は書きたいと思っていない。

結果的に、誰かのような文章になってしまっているかもしれない。「堀の文章って、○○さんの文章に似ているよね」みたいなことを思われているかもしれなくて。一度だけ、「(村上)春樹っぽいね」なんて言われたことがあるけれど、それを言った本人は村上春樹さんの小説を読んだことがないらしく、なんやねんそれって感じだけど、内心ビクッとしたのは事実だ。ビクッとというか、ちょっとだけ相好を崩していたかもしれない。オリジナルでありたいという欲望はあれど、村上春樹さんと(イメージだけだとしても)比較されるというのは、なかなか心地よいもののようだ、自分にとっては。

というか、両立するのかもしれない。

オリジナルでありたいということと、村上春樹さんをリファレンスされること。独立するものでも、相反するものでもない。

気鋭のアニメーターが、「新海誠みたいだね」って言われたら、それは嬉しいのだろうか。たぶん、そういうふうに言う人は、あんまり深く考えておらず、めちゃ無邪気に発言しているんだろうなと予想する。でも、そういう無邪気さの中に、ちょっとした真実が含まれているような気がして。

そういうことを無邪気に言えない自分は、てことは、真実を含む感想を述べることができないのだ。もっともらしいことは言えても、どこかベールを被っている気がする。ああ、なるほど、なんかそれらしい発言をしても手応えをあまり感じないのは、そういったベールが常に被せられているからなのかな。

そんなことを考えながら、金曜日の夜を過ごしている。今週は、なんだか疲れた。3週間くらい、ずっと疲れている。頭の中をのっぺりとした膜が貼っているような。

読み返してみたら、本当に酷い駄文である。何かを伝える気が、そもそもない。伝える気がない文章を掲示して、何か意味があるのだろうか。でもこの文章は、誰かのような文章ではないような直感がある。こうやって、駄文こねこねを続けていったら、自分なりの文体を獲得できるだろうか。雲を掴むような話に、聞こえるのは僕だけだろうか。

まあ、いいや。今日は、この辺で筆をおきます。