迷路とは「迷い」なのか(ふつうエッセイ #133)

4歳の息子が、せっせとドリルに向かっている。

子ども用の簡単なものだけど、ときどき分岐が複雑な迷路も出現する。

それでも継続は力なり、難しい迷路もクリアできるようになってきた。クーピーを握る手もしっかりしてきて、すいすいと線を描ける。

勉強でいう読み書きはもちろん大切だけど、まずはしっかりと絵筆を握れることが大切なんだと育児を通じて実感している。

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さて、迷路について。

文字通り、迷いの路と書く。

先を見出せない状態のメタファーとして使われることも多い。磁石が狂い、方向感覚が分からなくなって同じところをグルグル回ってしまう。できることなら迷路になんて迷い込みたくないというのが本音だろう。

しかしながら、楽しそうに迷路に臨んでいる息子を見ると考え直してしまう。迷っている状態に半ば強制的に参加させられる迷路を、ニコニコしながら頑張っている。

そうか、必ず解決策があるのが楽しいのではないだろうか!迷路には必ずゴールがあるのだ。

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逆に、迷路がない人生を生きるのは、楽しいだろうか。

先を見出せる状態。一本道を行けば良いのは確かにラクだ。

出世コースに乗ったサラリーマンが、ふと現在地を見渡したとき、裸の王様のようになっているという話をよく耳にする。会社の中での立ち振る舞いが分かる。固定化された人間関係も実に心地良い。全てを懇切丁寧に説明しなくとも、周りは動いてくれる。実にラクだ。

予定調和はリスクを減らせるけれど、次に繋がるようなハプニングは起き得ない。道に迷ったからこそ得られる知見が存在すると僕は信じている。

1円にもならない徒労に終わる可能性もありながら、迷路に臨む息子のように、せっせと道を拓いていく。

そんな大人でありたいなあと思うのだ。