人生とは、炊飯器だ(ふつうエッセイ #261)

人生とは、炊飯器だ。

炊き上がるまでには時間がかかる。でも米や水の分量を間違えてしまうと、できあがったものは固くなってしまう。予約はできるけれど、予約できるのは一回分だけだ。そして炊ける量には限界がある。

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なんて。

いま僕が目についた炊飯器を、適当に人生と重ねてみた。あまり考えなしに書いてしまったので雑だけど、もう少し推敲を重ねれば、それっぽく拵えられた文章になる予感がする。

「世の中、すべてがメタファーだ」なんて、したり顔で言うつもりはない。でも日々を過ごす中で、ふと特定の何かが、人間のある言動を象徴しているように感じることは多々ある。

豊かで、自分勝手な空想力がメタファーたらしめているともいえよう。

先日、映画「ホテルローヤル」の感想をnoteに書いた。

北海道・釧路の町外れで、意気揚々と開店したラブホテル「ホテルローヤル」。創業者が病床に伏し、訪ねた客が心中事件を起こしたことで、ホテルローヤルは廃業となる。父の跡を実質的に継いでいた娘にとって、ラブホテルに特段の愛着はなかった。むしろ子どもの頃は「ラブホテル屋の娘」として揶揄われていたわけだから、ラブホテルを手放せることはラッキーだったかもしれない。(その辺りの解釈は、ぜひ映画や、桜木紫乃さんの原作で確かめてほしい)

廃業となったラブホテルのことを思う。

フィクションとはいえ、まさに数十年で廃業したラブホテルは、まさに人生と同じではないだろうか。人生より短いようだけど、「華」のある時期はそんなもんかもしれないなと、脳内で都合よく解釈してくれる。

他人に伝えるメタファーには良い / 悪いがあるけれど、個人で完結する場合は、そのメタファーに普遍性が宿らなくても構わない。「人生とは、炊飯器だ」と思い至ったメタファーも、その細部に辻褄が合わなくとも、脳内は「人生とは、炊飯器だ!」と決めてしまったわけで、最終的にメタファー側が折れてくれる。

社会的な動物である人間は、少しその広場を脱すると、途端に個別としての人間に早変わりする。個別としての人間は、自由だ。それだけでは生きていけないのが残念だけれど、自由だと感じる気持ちは、ときどき大切に磨いていたいと思う。