所有の証明(ふつうエッセイ #24)

至るところで所有の証明が行なわれている。

一方で、所有の証明が(意図的に?)見えづらくなっているケースもある。

その違いはなんだろうか。

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所有の証明が行なわれているケース。

保育園に通う息子の衣服には、全て名前が書かれている。でないと他の園児の衣服との識別ができなくなるからだ。せっかく買った衣服がなくなってしまうのは困る。保育園側も「服がない!」とクレームを言われたくはないだろう。この場合、所有の証明はWin-Winの関係にある。

また、携帯電話も所有の証明が色濃い。

多くの人が携帯電話ケースを使っている。スクリーン破損防止の効果もあるが、ケースがないと、誰のiPhoneなのかが分からなくなる。また電源を入れると、ホーム画面はそれぞれの待受が設定されている。盗難・紛失時に活躍する「iPhoneを探す」機能も便利だ。これをオンにしていれば、どこにiPhoneがあるのかが一目瞭然となる。

簡単に所有を手放さない仕掛けが、ありとあらゆる形で施されている。

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一方で、所有の証明が見えづらいケースもある。

例えば家やマンションをローンで購入したとき。所有者は購入者になるが、抵当権は金融機関が持つことが多い。ローンの支払いが滞れば、所有していた「はず」の家やマンションはたちまち金融機関に取り上げられてしまう。

何かしらの災害などで、家やマンション自体がなくなった(所有が消えた)としても、支払うべきローンは残る。東日本大震災では「二重ローン問題」が顕在化したが、これも所有の意味や範囲を意図的に見えづらくさせたものと言えるだろう。結果的に、所有していた人たちが不利益を被ることになってしまった。

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自分のものだ、と思っていても、自分のものではなかったりする。

自分のものでないと思っていても、責任が自分に帰すときもある。

所有から共有、ということが言われている中で、それでも所有はじっくりと生活に根ざしている。

何を持ち、何を持たないのか。

そして、何を持っていて、何を持っていないのか。

同じような問いに見えるけれど、その差異には敏感になっていたい。