洗濯機が回る(ふつうエッセイ #14)

我が家では、朝から洗濯がグルグルと回っている。

台風一過、からっとした晴天が予想される。まさに洗濯日和だ。

その日の予定に合わせて、だいたいが「標準」または「おいそぎ」のコースのいずれかを選択している。洗濯機には「手造り」「やわらか」「デリケート」など様々なコースがあるが、違いがいまいち分からない。まあそれは大した問題ではない。

考えれば当たり前のことだが、彼(洗濯機)は、毎日同じ工程を、同じやり方、同じ強度で遂行してくれる。たまに投入した洗濯物の量が多過ぎて「うなる」ことがあるけれど、基本的にはきっちりと仕事をこなしてくれる。安定している。「ごめん、今日は体調悪いから無理やねん」なんてことはない。

人間もかつてはそうだった。とりわけ製造業において、同じ商品であればきっちりと「同じ」ものが完成する。それはいくら機械が介在しようとも手作業の割合が大きかろうとも、基本的な形は変わらない。とにかく「同じ」ものを完成させる。標準化という名のもとに、徹底している。

ただIT分野だったり、スタートアップだったり、仕組みがきちんと整備されていない領域については「同じ」ようにならないのが現状だ。スタッフの知識や経験、スキルの多寡によってアウトプットが異なる。高いセールスを上げられるメンバーがいる一方で、なかなか成績が芳しくないメンバーもいる。やる気や根性といった資質面の違いも「同じ」ことを妨げるのだ。

ふつう、という観点で見たときに、「同じ」「違う」がどちらがあるべき姿なのかは分からない。

ただ、彼(洗濯機)の仕事ぶりを見ると、我が家のQuality of Lifeを高めている事実は間違いなく。それが「ふつう」と見なすのはフェアではないように思う。僕の家事・育児のレベルの遥か遥か上をいく。メーカーが技術を彼(洗濯機)に結集させたのが良くわかる。素晴らしい成果だ。

期待値をあげすぎないことも大事かもしれない。せっかちに成果を求めては、ふつうの水準がどんどん特別なレベルにまで押し上げられていく。ほどほどで良いふつうもある。いや、ほどほどのふつうは、あるいは特別なものかもしれない。禅問答のように、ふつうと特別を行き来しながらも、彼(洗濯機)はひたすらと回り続けている。