自主的に情報を遮断していることに気付かない(養老孟司『バカの壁』レビュー)

2003年4月に発刊された養老孟司さんの『バカの壁』。

新潮社が発行する新書レーベル・新潮新書の創刊時に発刊された本書は、2020年12月時点で448万部を売り上げている。今でも毎年2万部を売り上げており、ベストセラー+ロングセラーの書籍として、広く長く読み継がれている。

僕自身も昔に読んでいたが、本書の内容はすっかり忘れていた。

先日実家に帰る機会があり、本棚を物色していると『バカの壁』が出てきた。寝転がりながらページを繰ってみると、2003年に書かれているとは思えないような鮮度に驚いた。当時と変わらず「バカの壁」が屹然特立している現状に嘆息してしまった。

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冒頭で、興味深いエピソードが出てくる。

イギリスのBBC放送が制作したドキュメンタリー番組。ある夫婦の妊娠から出産までを詳細に追ったもので、北里大学薬学部の学生に見せたとき、男女のリアクションの相違を記している。

ビデオを見た女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想でした。一方、それに対して、男子学生は一様に「こんなことは既に保健の授業で知っているようなことばかりだ」という答え。同じものを見ても正反対といってもよいくらいの違いが出てきたのです。
(養老孟司『バカの壁』P13〜14より引用)

ジェンダーが厳しく問われる時代に、男女という切り口はやや偏っているように思う。しかし養老さんの示唆は、本質を厳しく突いていく。

その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だ、ということです。要するに、男というものは、「出産」ということについて実感を持ちたくない。だから同じビデオを見ても、女子のような発見が出来なかった、むしろ積極的に発見をしようとしなかったということです。
つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」です。
(養老孟司『バカの壁』P14より引用)

良く言われていることだが、「分かっている」「理解している」「実行できる」はそれぞれ異なるものだ。

スマートフォンを一人一台所有する時代、インターネットが手近になったことで「分からない」は発生し得ない環境になった。Googleに関連語句を入力すれば、「分かっている」という状態をすぐに作れる。Twitterの検索窓に「高市 すごい」と入力すれば、高市早苗さんを支持する声を拾い上げることができる。「自分は世間とズレていない」と確認できるから、異なる見解を持った他者に対して愚かだと断定できる。

言わずもがなインプットする主体は「あなた」だ。どのような情報がアウトプットされるか、判断は「あなた」に委ねられている。

例えば「あなた」が戦争のことは知りたくないと思う。戦争は何となく「やらない方が良い」と思うけれど、血が苦手だし、76年前の出来事を蒸し返してまで情報を得たくはないと。であれば「あなた」のスマートフォンには、永遠に宮城事件の顛末は姿を見せないだろう。Amazonのレコメンドに半藤一利さんの『ノモンハンの夏』が表示されることもない。終戦の日に、戦争関連の報道をテレビや新聞で収受することもない。つまり「あなた」は、自覚的にせよ無自覚的にせよ、戦争に関する情報を自主的に遮断しているのだ。

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「分かる」ということの危うさを、養老さんは指摘する。

先日行なわれた自民党総裁選の討論会。候補者の河野さん、岸田さん、高市さん、野田さんが、それぞれ20分の所定時間で熱弁を振るった。

この20分で「○○さんは、〜〜というテーマにも取り組む」と分かったような気になるのは危険だ。政治というディテールが複雑に入り組んだ世界の中で、「あちらを立てればこちらが立たぬ」というシチュエーションは何度でもやってくる。また外部環境の変化によって優先事項もどんどん変わる。そもそも自民党総裁=総理大臣になったとは言え、与野党の国会議員の意向を無視して専決処分を乱発するような政治は許されない。つまり、あらゆる複雑性を想定しながら読み解かないと未来を予見することはできないのだ。

否、必死で読み解こうとしたとて、未来を予見することは不可能だ。分かったような気分になることと、時間をかけて分かる / 理解する状態になることと何が違うのか。

養老さんは「知的労働の意義」について語っている。

知的労働というのは、重荷を背負うことです。物を考えるということは決して楽なことじゃないよということを教えているつもりです。それでも、学問について、多くの学生が、考えることについて楽をしたいと思っているのであれば、そこにはやはり、もうどうしようもない壁がある。それはわかる、わからないの能力の問題ではなくて、実は、モチベーションの問題です。それが非常に怖い。
崖を一歩登って見晴らしを少しでもよくする、というのが動機じゃなくなってきた。知ることによって世界の見方が変わる、ということがわからなくなってきた。愛人とか競走馬を持つのがモチベーションになってしまっている。そうじゃなければカルト宗教の教義を「学んでいる」と言って楽をしているか。
(養老孟司『バカの壁』P200〜201より引用)

物理的に遠くを見たいのであれば、双眼鏡や望遠鏡を買えば良い。

だけど、非物理的な物事を見通すためには、少なからぬお金や時間を割く必要がある。そして知識を体得する中で必ず発生する痛み。これまで自らが持っていた良識や常識が覆されることで、自己矛盾や自己否定に襲われる。それはとても辛いことだ。

見晴らしが良くなる。そのことで得られる実利は僅かかもしれない。だけど実利がモチベーションであるべきでもないし、実利なんてのは数ある基準の1つに過ぎない。実利を傘に、お金を配ろうが宇宙に行こうが、その人の好き勝手にやれば良い。だけどその人を神のように崇める必要は一切ない。

「バカの壁」を突破しよう。

養老さんが記したことが、普遍性を帯びなくなる未来を、養老さんは望んでいる。

大事なのはお金じゃない。良識の力を願いたい。

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