振動への感覚(ふつうエッセイ #613)

最近、中規模の地震が目立つようになってきた。

阪神淡路大震災は1995年、東日本大震災は2011年。同じ周期で、同規模の地震が発生するかは分からない。だが、いつ起こるのか、ギリギリになるまで予測できないのが地震の怖いところである。いつかは確実に起きる地震に、何とか対応する術は「対策」しかないわけで。それでも、そのときの状況で危険度は変わってくるから、もはや「地震なんて起こらないでくれ」と祈るのがベースラインになってしまう。

本日未明に、都内にはドスンとした揺れが起こった。

iPhoneからも地震を告げるアラームが鳴った。直前まで眠っていたので、地震が起きた後にアラームが鳴ったのか、タイミングは分からない。妻とともに子どもを守り、SNSで「もう大丈夫だろう」を確認して、再び眠りに就いた。

普段子どもたちが保育園にいるとき、私の地震(すなわち振動)への感覚は極めて鈍い。震度1くらいでは気付かないし、外出していたら震度3くらいでも「え?地震なんてあったの?」という感じだ。のんきである。

子どもがいると、やはり感度は上がる。なぜそういったメカニズムが身体に起こっているのかは分からないけれど、とにかく身体はそんなふうに反応する。

振動への感覚、ひいては安心したいという思いは、非常時には一気に高まる。

だけど、その感覚が常時においても敏感だと、効果不明な言動にもつながってしまうのだろう。自分の感性は大事にしたいものの、理性をもって「こと」に当たりたい。理知的な人間になりたいと、ここ数年は、強く願っている私である。