相対評価(ふつうエッセイ #451)

大昔のことなので書いてしまうけれど、社会人1年目のときに会社からもらった最終評価に、未だ納得がいっていない。

もう少し正確に書くと、「当時は評価に納得していたけれど、15年経ったいま、あれで良かったのか」と疑問を抱いているのだ。

ネガティブな感情はない。前職で人事を経験したことで、「自分が評価者や制度設計者だったら、どう評価しただろうか」と考えてしまうのだ。

当時、社員の評価はオープンだった。

誰がどんな評価がなされているか、誰でも知ることができた。当時のベンチャーとはそういったオープンな実力主義が尊ばれたこともあったが、社員からのクレームもあったのだろう、翌年からは非公開となった。

肝心の社会人1年目の評価だが、僕は同期よりも1ポイント低かった。10点満点で6か7ポイントだったような記憶がある。いずれにせよ、1ポイント分、彼女の方が高く評価されていた。「ああ、会社からはそうやって判断されているんだな」という思いを抱いた。

評価とは、複数の基準によってなされるものだ。

コントロールできる指標と、コントロールできない指標があって、特に新人は、「ちゃんと真面目に仕事に取り組んだか」などの、自分自身でコントロールできる指標によって評価されることが多い。上位の役職になればなるほど、自分で容易にコントロールできない指標(売上や営業利益など)が評価対象に加わるようになる。

だが、ひとつ言えるのは、相対評価からは逃れられないことだ。

みんなが100点を取れば、みんなが100点分の評価になる。「絶対評価の仕組みになっているよ」と言い張っていても、例えば、上位の役職のポジションの数は限られている。「社長」の椅子はひとつしかなくて、そこからブレイクダウンされて、事業規模などに応じて、それぞれの役職の数が決まっていく。

みんなが100点を取っても、みんながリーダーになれるわけではない。比較され、相対的に判断されるのだ。

そういった評価から、どうやって逃れられるかをずっと考えてきた。

評価されたくなければ、評価する側の人間になればいい。かつて講演だか授業だかで、堂々と言い放ったひとがいた。「なるほど」と思ったけれど、それは社会の中で、相対的に評価者の立場へと抜け出すことを意味していて、社会全体の構造として「被評価者が多い」という状況を変えることにはつながらない。

「評価されたい」というひともいるから、一概に、「こういう社会にすべきだ」と言いづらいのは確かだ。だけど、何とか良い方向にいけばいいなと思っている。

あの社会人1年目の評価に納得がいっていたら、15年間もウダウダと悩む必要もなかったんだけど。評価の力学は、なかなかに侮れない。