最近、邦楽ばっかり聴いているな。
なんて思うことが、ここ数年たびたび起こる。僕はApple Musicを契約しているのだが、レコメンドされる音楽はことごとく邦楽の曲が多い。
これはAppleなりの「配慮」というか、「こいつは、こんな曲が好きだろう」というAIレコメンデーション機能の恩恵でもある。だけど僕は、決して邦楽ばかりを聴きたいわけではない。コーチェラは全く追うことができなかったけれど、どんなアーティストが出演したのか熟知しているAppleに、コーチェラ関連の曲もどんどんレコメンドしてほしいと思っている。
今年は、せっかく「BLUE GIANT」も観たわけで。「今年こそジャズを聴くぞ!」なんて思い立って何曲かApple Musicでも聴いたはずなんだけど。その結果は、どうやらレコメンデーション機能には反映にされていないようだ。うーむ、非常にもどかしい。
これは「AI、もうちょっと精度を上げてくれ!」という問題でもないような気がする。むしろ中途半端にレコメンデーション機能に頼っているきらいがあって、自分から進んでdigするような行動をとっていないのではないだろうか。ではないだろうか、ではなく、間違いなく最近はdigが足りない。20代の頃は雑誌「SNOOZER」を頼り、休日は横浜のタワーレコードを訪ねて視聴機でガンガン聴いたっけ。だって今のようにApple Musicなんてなかったから。
今思えば、あれは、足を使って音楽を聴きに行った体験だったなあ。
何か困ったことがあるとき、ちゃんと足を使っているか、ちゃんと汗をかいているかを、問い直してみよう。
失笑という言葉の意味が知りたいとして。Google検索で「失笑」と打ち込めば、「なるほど、『失笑』とは『笑ってはならないような場で、あまりのおかしさに、思わずふき出してしまうこと』なのね」と分かる。でもこれは、分かった気になっているに過ぎない。
音楽と同様、言葉だって、身体的な経験なしに身に付くはずがない。ちょっとした真面目なイベントに顔を出し、ゲスト講師のズボンのファスナーが空いていて、「うわ!」と笑ってしまうようなこと。そんな失笑体験を経ないと、「あれ、『失笑』ってのは笑うことだっけ?笑わないことだっけ?」となってしまう。
こんなふうな態度だと、たぶん僕は、一生、体得できない言葉に臍をかむことになるだろう。
そんなのは嫌だ。少なくとも、言葉とは上手く付き合っていきたい。音楽も映画も大好きだ。大好きなものと、とびっきり良い関係を築きたいと思うのは自然なことで。だからこそ、努力というのは、大人になってからもずっと続く営みだと思うのだ。