プリクラがずっと苦手で。(ふつうエッセイ #576)

プリント倶楽部なるものが登場してから、ずーっと「プリクラ」というものが苦手だった。

光を多めにあてることで、顔全体が漂白される。昨今の加工系アプリケーションは「漂白」というレベルをはるかに超えているけれど、あれって、いったい何が喜ばれているのだろうか。

昔の写真を見ると、当事者は誰もが「わかーい」と感じるものだ。写真の画素もあるだろうが、やっぱり本質的に「若さ」が漲っているのだ。僕の実家には、家族で海外旅行に出掛けたときの写真が飾られている。(諸事情あって、その海外旅行に僕は行っていないのだが)

弟ふたりは、今の原型を全くとどめていない。そりゃ小学生なんだから仕方ないだろう。じゃあ両親は?というと、今の姿に近い面影は残っている。でも、38年間生きてきたけれど、両親のイメージは38年間ずっと変わっていない。少しずつ記憶がアップデートされていって、昔の両親の面影は、記憶から薄れてしまっているのだ。その家族写真に映る両親は、今の僕と同じ年齢(38歳)くらいの姿だ。そういう目でみると、「ああ、両親にも38歳という瞬間があったんだな」としみじみ感じるのだ。

こんな感覚を、30年後は、僕の息子たちが感じるのかもしれない。

プリクラは、そういった情緒を完璧に排除してしまう。そこに映るのは、誰も彼もをフラットに漂白してしまう。均してしまう。

加工されていない写真に映る「顔」とは、「ああ、この人はきっとこんな人生を歩んできたんだろうな」と思わせるものだ。プリクラは、そういう想像を排除する。漂白する。均す。でもプリクラなるものが、昔から今に至るまでずっと流行しているのは、排除・漂白・均すにニーズがあるからなのだろう。

やっぱり、苦手なものは苦手だ。

「プリクラ撮ろうよ」という声から逃れ続けてきたが、実際に逃れられないにせよ、本当はプリクラなんて撮りたくないという人は少なくないのではないだろうか。

漂白せず、ありのままの素顔を晒す。

それで十分誇れるような人生を、歩んでいきたい。