300 スリーハンドレッド(ふつうエッセイ #300)

若きジェラルド・バトラーさんが2007年に主演を務めた映画「300 スリーハンドレッド」。ふつうエッセイが300回更新を迎えるにあたって、ふと思い出した。

国や家族、自由のために、100万人のペルシア軍を迎え撃つスパルタ軍。従属を拒否し、戦うために徹底的に鍛え抜かれたスパルタの300人の兵士が、肉弾戦を繰り広げる。

ちなみに僕は、「300 スリーハンドレッド」のような戦記物が苦手だ。

高校時代に世界史を専攻していたものの、生々しい戦記物や、ちょっとしたファンタジー系は避けてきた。流れる血には目を背けたくなるし、大袈裟に見えるイニシエーションにうんざりしてしまからだ。

ただ、いまで認識を改めている。

映画を構成する要素は物語だけではない。不誠実なネタバレは遠慮願たいけれど、物語をそのままなぞり、主人公に感情を無理に投影する必要もない。映画が作られた背景や、映画そのものの形式に着目することで、苦手なジャンルにも別の視点を添えることができる。

例えば「300 スリーハンドレッド」では、「神」という未知の存在がひとつのテーマになっている。「神の冒涜だぞ」「神に逆らうのか」といった言葉が99%まやかしだと分かっていても、主人公のレオニダスは、たった1%の可能性に迷ってしまう。力と力の勝負であれば絶対的な自信があるにも関わらず、心がわずか乱れるだけでたびたび判断を躊躇させられる。

自由を求める。

しかしそれは、神によって担保された自由なのか。

では自由とは何だろう。普遍的な問いに、思考が巡っていく。考えもしなかった新しい視点を発見できることもあるだろう。

現代において、あるいは日本人において、「300 スリーハンドレッド」でいう神の存在にあたるものは何だろうか。コロナ禍では漠とした不安によって、社会が停滞してしまった。その不安の根源は、どこにあるのだろう。無宗教で、神に対するイメージが湧かない僕でさえ、「神っぽい」何かに翻弄されることがある。

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ふつうエッセイ、毎日こつこつ続けて300回目になりました。

これからも駄文を綴っていければと思いますので、引き続き読んでいただけますと幸いです。