教えることが苦手(ふつうエッセイ #180)

「〜〜を教えてください」

声を掛けてもらえることは有難いが、実は、人に何かを教えることが苦手だ。これまでも仕事の中で、机を並べるようにして仕事の指導や引き継ぎなどを行なったことがある。どうにも窮屈な感じがしてしまう。

対人コミュニケーションや、同じオフィスで仕事をすることが嫌なわけではない。対話は楽しいし、チーム内で進捗確認&フォローはマメにやっていくべきだとも思う。

だが「教える」ということになった瞬間、思考が止まってしまう。

僕は、何を教えられるというのだろう。

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すごく傲慢な言い方かもしれないが、僕は誰かに「教えられた」という記憶はない。

お世話になった恩師には、教えられたというより、一緒に考えたという感覚に近い。伴走者として、あたたかく、時に厳しく見守っていただいた。

見守るとは、何もしないということではない。

まずは自分が誰よりも学ぶ人でなければならない。常に理想を掲げ、実践を繰り返しながら、自らを更新していく。その経験を通じて、本人と向き合っていく。あれをやれ、これをやれと言うのでなく、本人の意思がじっくり醸成するように対話を繰り返す。それが見守るということではないか。

逆に苦手だった教師は、僕に対して「教える」ことに躍起だった。期待通りいかなければ、威圧や恫喝を加え、正しいルートに進むよう腕を捻られた。ときに拳骨を喰らい、ときに尻を蹴り上げられ、僕はしぶしぶと期待に応えようと前を向いた。

それが時代だったと言われて、納得するわけがない。

せめて、僕に決めさせてやってくれよ、と今なら思える。

野球だって、僕は、別に上手くなりたいわけではなかった。

「ばっちこーい!」と大きな声をあげ、わあわあ言いながら白球を追いかけるだけで満足だった。ヘッドスライディングを繰り返してユニフォームが真っ黒になる。それで試合に勝てるわけではないけれど、一生懸命やって汗を流すことは、とても気持ちが良かった。

その過程で、もっと際どいボールを取れるようになりたい、もっと上手くなりたいと思うのではないだろうか。

個人の意思の集積が、チームの勝利へと繋がる。順番は逆であってはならない。

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教えることも苦手だし、教えられることも苦手だ。

だけどそれは、向上心がないことと同じ意味ではない。もっと能動的に、個人の意思は、底抜けに成長を志向していける。

その可能性を信じて、他者は本人を見守るしかないと思うのだ。