手を合わせる。(ふつうエッセイ #709)

祈りとは、何のためにあるのだろうか。

キリスト教でも、イスラム教でも、仏教でも、神道でも、何かしらの祈りは発生する。

先日公開された「アウシュヴィッツの生還者」でも、主人公のハリーに対して、女性(のちのパートナー)が神に祈りを捧げるように促した。

ハリーは当初、祈りを拒否する。ハリーはナチスによって強制収容所に囚われ、そこで酷い仕打ちを受けてしまう。その過程を経験し、「神はどこにいたんだろうか」と、信仰心を持てない苦悩を打ち明けていた。

そんなハリーと比較するわけではないけれど、世の中には多かれ少なかれ、苦しみや悲しみで打ちひしがれた人が大勢いる。全員が特定の宗教を持っているわけではないけれど、何かしらの祈りは捧げている。

無宗教だといわれる日本でも、ご飯を食べる前に、手を合わせて「いただきます」と告げる。(告げない人もいる)

この「手を合わせる」「祈る」という行為について、30代後半になってから随分と考えるようになった気がする。僕はもともとそういった信仰心は希薄な方だと思うのだけれど、国際社会における「祈る」の立ち位置は、かなり重要なところにある気がしてならないのだ。

祈っても、良いことばかりあるとは限らない。なのに、祈る。

僕はほんの少しだけ、その意味に共感を寄せられるようにはなっている。言語化はできないけれど。