語れる何かを持っているか。(ふつうエッセイ #582)

平日の昼下がり、東京都と神奈川県の県境を走る電車に乗っていた。

途中駅から、5人組の男子高校生が乗り込んでくる。誰が言い出すこともなく、iPhoneを取り出してゲームに講じる。彼らにとっては、その瞬間が唯一の息抜きなのかもしれないけれど、ふと、「もっと楽しいことないかねえ」と思ってしまった。大きなお世話である。

スクリーンに向かって、親指をタップし続ける彼ら。装いから、学校では真面目に勉強に取り組んでいる生徒であることが予想できた。

僕も高校時代、そんな生徒だったように思う。だから、彼らに昔の自分を重ねたのかもしれない。(ゲームはなかったのは確かだけど、果たしてどんな感じで電車通学していたっけか?)

ちなみに、僕が高校に通っていた頃、地元にはいわゆる「不良」と呼ばれるやつらが幅を利かせていた(あえて「やつら」「あいつら」と表現したい)。

「やつら」の中でも、一際悪そうなやつらと、電車で遭遇してしまったことがある。睨みをきかせてボックス席に座ると、やおら煙草をふかせ始める。その臭いが、車両に充満して本当に迷惑だった。あれは怖かったなあ。目をつけられないよう、隅の方で縮こまっていたっけ。

そんな自分が嫌で、何か打ち込めるものをと探していた。友人が所属していたラグビー部。ラグビー部は慢性的に部員不足だったので、彼は周りの人間に声をかけまくっていたけれど、「もやし」体型だった僕にだけは声をかけていなかった。後にも先にも、親しい友人に「俺もやってみたい」と伝えたのはこのときだけだった。

ラグビーの面白いところは、ポジションによって役割が違うことだ。コンタクトスポーツだけど、僕が務めていたポジションは、ガツガツと当たりまくることはなかった。ボールを受けたら、トライに向かって進むことが許される。ラグビーを通じてしんどいことも多かったけれど、多少の自信はついて、肩身の狭い思いをすることはなくなったように思う。

彼らも、きっと胸を張って「語れる」何かを持っているのだろう。

たとえ持っていなくても、それを探す努力を怠らなければ、きっと人生は充実する。僕も何度も自信を失い、不安を抱え、心を痛め続けてきたけれど、何とか今を生きている。

熱く生きようぜ!なんて言わないけれど、心は冷めやらず、温かく歩んでいってもらえたらと思った。