こんな問いかけから、本は始まる。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』愛は技術だろうか。技術だとしたら、知力と努力が必要だ。それとも、愛はひとつの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければ「落ちる」ようなものなのだろうか。
多くの人はもしかすると後者と答えるかもしれない。
いつか私の前にも白馬の王子様が現れる!
と、一度でも願ったことがある人は、きっと多いはず。
さらにフロムは、私たちにこう問いかける。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』だからといって、人びとが愛を軽くみているというわけではない。
それどころか誰もが愛に飢えている。
楽しい、あるいは悲しいラブ・ストーリーを描いた数え切れないほどの映画を観、愛をうたった流行歌に聞き入っている。
ところが愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。
私も、これまで数えきれないほどのラブ・ストーリー映画を観てきた。
人が恋に落ちる瞬間を見るのも好きだし、大失恋するストーリーを観て、大泣きするのも好き。
けど、たしかに、学校で「愛」について学んだことは一度もないし、愛されたい!とは願う一方で、愛について学ぼうと思ったことはない。
愛を軽くみているわけではない、なんなら、愛って難しいと思ってすらいる。
ところがなぜか、他の技術と違って、愛について学ぶことがない。
この奇妙な態度は、いくつかの前提が個別に組み合わさって生まれているとフロムは断言する。いくつかフロムの愛に関する考察を紹介したい。
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一つ目の考察は、愛の問題を愛する能力の問題というよりも、愛される問題として捉えていることが多いのではないだろうかということ。
どうしたら愛されるのか?どうすれば愛される人間になれるのか?
その問いを愛の問題の問いと設定したときに、現代社会で起こっていることは、男性の場合は富や権力を手に入れる努力をすること、そして、女性の場合は外見を磨く努力をすることだ。
愛することよりも、まず人は愛される対象に自分がなることを願うし、それに向けて行動する。
実際、世の中には、モテる術とか、愛され術とか、愛されるための対象になるための特集がたくさん組まれている。