思いがけず、圧。(ふつうエッセイ #526)

無用な「圧(=圧力)」はかけたくないと思っていても、知らず知らず、他者を追い詰めていることがある。

「なんで、〜〜したの?」という言葉は、理由を探るものでなく、言外に相手を非難する意図も込められている。「いや、おれは純粋に理由を知りたいんだよ」なんて声が聞こえてきそうだ。でも、理由を知ってどうなるというのだろうか。百歩譲って理由を知りたいのだとしても、開口一番、理由を訊ねてもどうにもならないのではないか。

僕が執筆する原稿は、どんな種類のものでも、なるべく公平に記すことを心掛けている。

それでも読んだ人から「ちょっとネガティブじゃないですか?」と言われることもあるし、時間を置いて文章を眺めると、「めっちゃネガティブじゃないですか……」と感じることがある。

これだって、そのまんま文章が衆目に晒されたとしたら、無言の圧を振り撒くことになっていたわけで。

そんなことを、今日、とある原稿のリライトを行ないながら気付いたのだ。これをそのまま公開していたら、思いがけず傷つけてしまう人が出てしまうだろう。

時には他者を傷つけるのを厭わぬ姿勢も必要になるかもしれない。だけど、「思いがけず」という流れは良くない。他者を傷つけるならば、自分も同じくらい、いやそれ以上に傷つく覚悟がなければならない。(もちろん、傷つけずに越したことはないけれど)

でも、「思いがけず」を100%止めることはできない。

こんな駄文を記して、「今日も書けたね」なんて悦に入っている同時刻に、戦争や地震による苦しみや悲しみを感じている人が確実にいる。そのことを無自覚でいるわけにはいかない。

見て見ぬフリはできない。

それは他者が誰かを攻撃している様子に対してだけでなく、自分が誰かを傷つけているかもしれない可能性のことも含めないといけないのだ。

考えれば考えるほど憂鬱になるけれど、それでも、可能性の海で想像力を働かせるしかないのである。