負けを認めること(ふつうエッセイ #462)

テレビ東京で放送された「じゃないとオードリー」で、オードリーの若林正恭さんが「負け」を認めた。

わずかしか放送されなかったけど、その瞬間の驚きは、僕にとってそれなりに大きな出来事だった。

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オードリー(相方の春日俊彰さんも含む)は、収録において本番以外では終始オフモードを貫く。業界内では有名だったようだが、番組内でも、企画が始まる前は、必要最低限のこと以外は一切口にしていなかった。

番組の企画は、オフも含めて「『テレビのオードリー』をずっと貫き通せ」というもの。

メイク中はスタッフを笑わせ、カメラが回っていないときも共演者とコミュニケーションを取る。いつもと違うオードリーのふたりに、周囲は当然ながら戸惑っていた。それが徐々に打ち解けていき、番組の雰囲気が明るくなる。

そこで件のセリフ、「オフのときもコミュニケーションを取ることによって、番組の雰囲気が明るくなっていったとしたら、(これまでの自分は)負けだったんじゃないか」ということになった。

若林さんが、これまでの自分の「誤り(=負け)」を認めた瞬間だった。

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負けには、2種類ある。

自分に負けること、自分以外に負けることだ。

開催中のサッカーワールドカップ、各国のナショナルチームは、他国の強豪と戦う。

日本代表は予選リーグを突破し、ベスト8をかけてクロアチア代表と戦った。結果はPK戦で負け。これは「自分以外に負けた」典型例といえる。

一方で、自分に負けるというケースもある。先ほどの日本代表でいえば、世論やメディアの批難によって個人のプレーが萎縮してしまい思い通りのプレーができなかったときが該当するだろう。外的要因はあれど、「自分に負けた」と見做される。

オードリーの若林さんが負けたのも、自分である。

「過去の自分」が、周囲からの気付きによって「負けた」と判断したのだ。

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「これで良いはずだ」と思って、人生を維持してきたポリシーのようなものが、誰しもある。

「男なら、痛い痒いなんて言わず、仕事に向かうべきだ」と歯を食いしばって勤労してきたベテランが、若手社員に対して同じポリシーを押し付ける。結果として、若手社員が続々とメンタルを崩す。第三者から「指導方法が悪い」と指摘を受け、本人はそれなりの懲罰の対象になってしまった。

それは、過去の自分を否定されたかのような辛い出来事だろう。自分が信じてきたことが、時代の流れとはいえ、「それはダメだ」と否定されるのだ。その苦しみは、筆舌に尽くし難い。

だから、多くの人が負けを認めたくない。「自分は悪くない」と我を通すのだと思う。

こんなことを書いている僕自身が、無自覚で我を通していることもあるのだろう。何だか滑稽な仕組みのような気もするが、少なくとも「人生負けばかり」と開き直っていた方が、何事も受け入れやすくなる気はする。

負けを受け入れ、勝ちを拒絶する。

そんな価値観が、もっと広がっていきますように。