そういえば、たしか。(ふつうエッセイ #413)

絵を描ける人が、羨ましい。

美術館に行き、見事な絵画を見る。「絵画」は、「絵」を表す言葉がふたつ重なっている。字面に象徴される通り、美術館で飾られている絵画はどれも見事だ。鑑賞者に好みはあれど、圧倒される画力に魅了され、批評という行為がなかなか素人には容易にできない分野でもある。

僕は、美術館の絵画に限らず、例えば、イラストレーターによる作品も好きだ。ふつうごとでは、Ricco.さんのインタビュー記事を掲載したことがあったが、彼女が描く全ての絵には、彼女の「描きたい」という思いが込められている。一筆書きのようなカジュアルな作品もあるが、彼女の作品はどれも彼女らしい出来栄えだ。良し悪しなんて存在しない。どの作品も、Ricco.さんの代表作といえる。

僕は、絵を描けない。逆立ちしたって、無理だ。

いや、ちょっと待てよ。

そういえば、たしか。僕も絵を描いたことがある。

小学生のとき、僕はマンガクラブに所属していた。僕の小学校では、4〜6年生は何らかのクラブに入らなければならない(部活動は異なり、正式な校内活動だ)。別に絵を描くことは好きではなかったが、とある事情で、マンガクラブに1年間だけ所属したのだった。

当然、マンガクラブは、漫画を描かなければならない。

周囲は、日常的に絵を描いている人ばかり。どうしたものか……という気持ちには、実は、ならなかった。僕はスラスラ描けていたのだ。

もちろん、絵は下手だった。だが、ストーリーは湯水のように湧いてきた。絵を描く量を超えて、「もっと描いてくれ」と頭の中は叫んでいた。悩むより前に、手が動いていた。描き慣れていなかったし、技量もないから、とても拙いものだったけれど、一応漫画として成立していたように思う。

そういえば、たしか、そんな時代があったのだ。

下手でも良いというか、巧拙なんて全く気にしていなかった、あの頃。

今でもノートなどに、ポンチ絵のようなものを描くことがある。例えばセミナーを受講していて、「これは大事だな」と思ったことを、イメージとして残しておくのだ。そうすることで記憶にも残りやすい。

なのに、「絵を描けない」と思い込む、この感情は何なのだろう。

そういえば、たしか。

はるか彼方に忘却していた記憶を辿れば、苦手だと思い込んでいる事柄も、関心高く臨んでいたものがある。忘れることは、決して悪いことではないけれど。

そういえば、たしか。

そう思い出して、現在の思い込みにささやかに反抗しよう。時々は、ね。