今日の僕は、昨日の僕ではない。(ふつうエッセイ #410)

人間の体を構成する細胞は、日ごと、ちょっとずつ入れ替わっているらしい。サイエンスベースの話がしたいわけではないが、この「入れ替わり」ということを念頭におくと、「本当の自分とは何だろう?」という疑問から逃れられなくなる。

最近、このふつうエッセイをノートに書いている。もちろん公開する際には、ノートに書いているテキストをキーボードで打ち込まなければならない。いわば下書きのようなものをしたためているということだ。

夜、書くことが多い。

家族のみんなが寝静まり読書にも飽きてきた頃、ペンを手に取る。頭は半分眠っていて、ノートには書き殴ったような文字が並ぶ。それでも、つれづれと思いの丈が綴られていく。

振り返って読んだとき、それは大した文章でないことが分かる。だけど、「いまの自分には書けないかもな」と思うような内容も多い。夜と朝の感覚の違い、そして、昨日と今日の自分が少しだけ変わっていることが僅かに実感できるのだ。

そして、ノートに書いていた下書きを、一言一句なぞってキーボードに打ち込んでいるわけではない。足したり、引いたり。時には、全然違う表現を入れたりする。

それは、昨日の自分との対話でもある。「お前は、あのときどんなことを考えていたんだ?」と思い出す。「それって、あんまり理にかなってないんじゃない?」なんて呟きながら、新しい文章も書いている。対話が完了したとき、ひとつの原稿が出来上がるのだ。

時間を置くことで、客観視できる。そういう側面もあるのかもしれないけれど、僕の正直な実感としては、昨日と今日の僕の「共作」という感の方が強い。その感覚って、案外、見当違いでもないと思うのだ。