“大好き”なのに“離れたい”(碧月はるさん #3)

大好き、だけど、離れたい。その狭間で揺れる心に、罪悪感が顔を出す。「母親なのに」という台詞が、元夫の声で再生される。「母親だって人間だ」と、そう叫んでやれたらよかった。睡眠も休養も満足に取れなければ、誰もがいつしか限界を迎える。先に途切れるのが体力ならまだいい。もしも理性が途切れたら、そのとき隣に息子しかいなかったら、止めてくれる人がいなかったら、私は。

想像しただけで吐き気がした。自身の母親の金切り声が、耳元でこだまする。母もまた、いっぱいいっぱいだったのだろう。喉元にこみ上げる胃液の味とともに、ふいにそう理解した。

子どもの命を母親だけに背負わせる育児システムは、どうしたって無理がある。抱えきれない重責と無数のタスクに圧迫される毎日。たまにはそこから解放されて、のんびりと過ごしたい。そう思うのは当然のことで、責めを負うべき感情じゃない。むしろ怖いのは、無理を重ねて“無茶”の領域にまで足を踏み入れることだ。

“無茶”を強いられた状態で子育てをする。それはかなりリスキーであると、おそらくみんなわかっている。わかっていても、どうすることもできない。なぜなら、社会そのものが“無茶”を強要してくるからだ。ベビーカーを畳まずに電車を利用すれば、「邪魔だ!」と赤ん坊ごと蹴られる。スーパーで子どもが駄々をこねれば、「母親の躾がなっていない」と言われる。万が一の事故が子どもに起きた場合、大多数の人間が口を揃えてこう言う。

母親は、一体何をしていたんだ?

母親は、下の(もしくは上の)子どもの面倒を見ていたのかもしれない。母親は、体調が悪くて寝込んでいたのかもしれない。母親は、連日の夜泣きで睡眠が満足に取れていなかったのかもしれない。
母親の体も心も、ひとつしかない。それなのに、なぜ母親だけにすべての責任を被せるのだろう。父親は?祖父母は?親戚は?兄弟は?友人や知人にもできることはあるだろうし、行政の手助けがあれば結果が違った事例もあるだろう。

それなのに、母親がSOSを出すことさえ許容されにくい風潮が、この国には根強くはびこっている。“大好き”と“離れたい”の狭間で、目眩がするほど揺れている母親たちが、きっとたくさんいる。その人たちに、声を大にして伝えたい。もしもそんな自分を「ダメな親だ」と思っているのなら、「そんなことはない」。あなたがそう思えないなら、私が代わりに言い切る。そんなことは、ない。

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