また1ヶ月が終わる。(ふつうエッセイ #360)

また1ヶ月が終わる。

なんだか、毎月同じようなことを思っている気がする。ここ数年は「また1年が終わる」とも思うようになった。4歳の息子は、1年半後には小学生である。つい先日生まれたような気がするのに、早すぎる。間もなく2歳になる次男も言葉を次々と発するようになっている。早すぎるよ。

僕だって、先日創業1年目が終わったばかりなのに、もう創業1年1ヶ月目が終わろうとしている。ゆっくりと振り返りをしようと思っていたのに、次々とタスクに追われている。その合間にこんな駄文を記しているけれど(この時間は一貫して大事にしているが)、なんで、こんなに時が進むのが早いのか。誰か教えてくれないだろうか。

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どうせ教えてくれるひとはいないので、自分なりに考えてみる。

時間に追われている感覚を好むひとは、いない。世界は広いから、百人くらいは「時間に追われるのが好き」というひともいるだろうか。いや案外、ワーカホリックなひとたちは、「また今日も仕事をこなしたぜ!」という満足感に浸るものなのかもしれない。そういうひとたちが存外多いから、人生とは、かくも忙しなく回っているのではないか。そんな陰謀論を唱えたくなるくらいには困惑している。

そういえば1年前、僕はとある経営ゼミへの参加を決めていた。2ヶ月ほどの短いゼミだったけれど、頭がパンクするほどの学びと自分の至らなさに気付いた。それから1年経ったいま、どれだけ自分が成長できているか。少なくとも事業は育っていないわけだから、うーん、やっぱり時間に追われちゃっているだけなのだろうな……。

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ちょうど昨日、トライバルメディアハウス代表の池田さんがこんなnoteを記していた。

一生懸命頑張っているのに、「成長している気がしない」「上達している気がしない」というのは、学習曲線の理論によると「普通」のことだという。頑張れば頑張るほど成長する、という直線的なイメージは幻想に過ぎない。

高くジャンプするためには助走期間が必要だ。適切な助走期間を経て、ひとは高くジャンプできる。

そうか、僕はひたすら走り続けているのか。ちょっとずつ、ちょっとずつと信じるしかないのか。

そういう意味では、必要な助走期間を、また1ヶ月消化したと解釈もできる。ちゃんと消化できたのかは分からないけれど、ポジティブに捉えてみよう。そうすれば、また明日からも全力で走れるような気がするよ。