伸び縮み(ふつうエッセイ #336)

時間というのは伸び縮みしない。

だけど当人の体調や感覚次第で、伸び縮みしているように感じることがある。

21時ごろに布団に入った息子が、なかなか寝付けずにいた。小さな声でなにやら呪文のようなものを唱えていたが、どこか既視感を覚えた。昔の自分を見ているような気がしたのだ。

僕は保育園に通っていたけれど、昼寝の時間が大嫌いでたまらなかった。先生の目を盗んで、布団から抜け出すこともあったらしい。そういった「トラブル」は少なかったはずだが、布団の中で天井を見つめて時間が過ぎるのをただただ待っていたような記憶はうっすら残っている。昼寝の時間は2時間程度だったはずだが、時間が過ぎるのを待っていたのだ。早く過ぎてほしかったけれど、なかなか時間は過ぎていかない。

逆もまた然り。

仕事に追われて、集中してパソコンに向かっているとき。「え、もう息子を迎えに行く時間じゃないか」と頭を抱えることがある。

大人になると「え、もうこんな時間?」というように、時間が縮んだのではないかと思うことが増えた。もちろん錯覚に過ぎない。

時間を味方につけたい。

そう思えば思うほど、時間は遠ざかっていくようだ。時間を味方につけるも何も、時間はただそこに存在するだけだ。敵でも味方でもあるはずがない。

それでも僕は、時間が伸び縮むような感覚に、囚われたくないと思う。時間の奴隷になりたくない。締め切りも設けたくないし、かといって、無尽蔵にゆるゆると時間が流れていくような感覚に陥るのも嫌だ。

時間に対して、なんだか批判的になってしまう。時間はただそこに存在するだけなのに、見えないのがもどかしい。砂時計でも購入しようか。いや、そういう問題ではないのだと、分かってはいるのだけど。