真相と、そうでないもの(ふつうエッセイ #319)

例えば僕が、ふと万引きをしてしまったとする。

万引きは、犯罪だ。だから僕は絶対に万引きをしない。

そう思っているけれど、果たして、どんな状況においても僕は万引きをしないだろうか。情けないけれど、そう言い切れないのが僕の弱いところだ。

仮定の話として、僕が万引きをしたとする。「お金がなくなってしまったから」という理由で万引きしたとしたら、それが果たして真相だといえるのだろうか。

お金がなくなったとしても、万引き以外の手段はある。炊き出しの場に赴いたり、警察署に飛び込んでみたり。「どうしてもお腹が空いて無理なんです」と誰かしらに頼めば、きっと食事にありつけるだろう。(少なくとも日本においては)

それでも、万引きをしてしまう。それが一番早いから?映画「万引き家族」で、リリー・フランキーさん演じた柴田治は、「商品が売られる前は、誰のものでもない」という理屈をこねて、家族ぐるみで万引きを働いていた。だけど、その理屈は当然ながら通用しないし、それが真相として「なるほど、だから万引きを働いたんだね」という納得感を相手にもたらすことはない。

「お金がなかったから」
「どうしてもお腹が空いたから」

そんな理由は、真相として分かりやすい。しかし、そればかりが真相とは限らないと僕は思っている。

真相と、そうでないものを分かつものは何だろうか。

真相が、分かりやすいものである必要はあるのだろうか。真相を、社会が知りたがる理由はなんだろうか。

色々理由づけできそうだけれど、もうちょっと深掘りして考えてみたいなと思う。人間は、何を求めて、何と闘っているのだろうか。