擬人化(ふつうエッセイ #190)

世の中、擬人化だらけである。

例えば子ども向けの絵本だと、みかんやりんご、犬や猫やライオン、鉛筆やクレヨン、さらにはトイレやパンツも人格が付与されている。

むろん、用を足していてもトイレが喋ることはない。示し合わせたように便を流す機能には驚いてしまうが、それは一応、プログラミングによって制御されているものだ。

擬人化は、子どもだけの世界ではない。

パソコンの動作に不具合が生じていれば「(パソコンの)調子が悪いなあ〜」と言ったり、春の陽気に誘われて桜が開花してきたと言ったり。情緒や風情の表現に、擬人化は一定の役割を果たしており、また自然万物に神が宿ると考えてきた日本人の豊かな感性の表れとも言えよう。

擬人化がない世界というのは、どんなものだろうか。

「カタカナ禁止ゲーム」はそこそこ盛り上がるが、「擬人化禁止ゲーム」は微妙な気もしている。カタカナはあまりに日常に溶け込んでおり、禁止されると困ってしまう。

だが擬人化は、気をつけていれば成立する。ただただ情緒や風情が失われた会話になるだけだ。

全てに擬人化を託してしまうのは違和感だが、愛や共感を注ぐ対象に対して人格を付与する行為は、とても自然なふるまいだ。

素敵な擬人化の表現が、今日もどこかで生まれているかもしれない。

その想像力を大切にしたい。きっと世界は、穏やかに維持されていくだろう。