知ることが、知らないにつながる(ふつうエッセイ #173)

おれは無知だなあ。

ウクライナが戦争を仕掛けられて、世界中から無事を祈る言葉が投げ掛けられている。その言葉をひとつずつ噛み締めていると、ひとつひとつの歴史の積み重ね(つまりそれはウクライナ国内外における政治的な意思決定も含む)によって現在の惨状を招いていることが分かる。

分かる、と書いたけれど、本当のところ分かっていない。

僕は無知で、物事への理解力も高くない。

全然、ちっとも分かっていない。それが本当に恥ずかしいし、悔しい。

だから学びたいと思う。

人の痛みを、少しでも共感したい。

*

年々、こういったことへの渇望が高まっていく。

たぶんそれは、「知る」ことが、「知らない」ことの扉を開くからじゃないだろうか。

「知らない」ままで良いと思えば(あるいは「知る」ことを求めなければ)、永遠に「知る」ことはできない。

いちど扉が開かれたら、きっとまた新しい扉を開きたくなる。知的探求とか、そういう小難しい言葉を使うまでもなく、「知る」を求めるとはそういうことなのではないだろうか。