エレベーターの修理(ふつうエッセイ #72)

1ヶ月ほど前に、住んでいるマンションの管理会社から1通の手紙が届いた。

来年初めから1ヶ月間ほど、備え付けのエレベーターを修理するのだという。「ご不便お掛けします」という詫び状と共に、商品券が同封されていた。

ラッキー、となれば良いのだが、もちろんそういうわけにはいかない。

賃貸契約ゆえ、エレベーター修理に際して、居住者が別途費用を支払う必要はない。長期的には利便性が高まるわけだが、1機しかないエレベーターが使用できないことのデメリットはものすごく大きい。小さい息子がいる我が家では、ベビーカーをどうやって昇降させようかが問題となり、家族内オペレーションをあれやこれやと頭を巡らせている。

どんなものでも、いつかは古びてしまう。

エレベーターだって、定期的に修理する必要はあるだろう。そのまま致命的な不具合を放置してしまえば、それこそ命の危険に晒されることにもなる。

それは分かる。そして幸運なことに(と言うべきだろう)、僕は、日々の生活に支障は出づらい。だが、身体に障がいがあったり、高齢で動きづらいような方だったりは、ものすごく困ってしまうだろうなとも思う。

管理会社を批判したいわけではなく、結構、色々なことを象徴し得るものではないかということだ。

政治家の良心を信じたいものの、改悪と思しき制度設計は至るところで行なわれている。それがマジョリティにとってはプラスになったとしても、たった1つのセーフティネットが奪われてしまえば(損なわれてしまえば)、命の危険に晒されてしまう人だっている。それはコロナ禍で、痛いほど良く分かったし、「何も考えてないな」と呆れるような衆愚政治の片鱗(全容と言うべきか)を何度も見てきた。

エレベーターの修理を、衆愚政治と同じにするのはさすがに酷だけれど、とりあえず同封されている商品券を眺めていると「しょうがないよね」と同意を求めるような「圧」を感じざるを得ない。

ただ、もう決定事項なんだよな。どうしたものだろうか。