あかるくなれたら(ふつうエッセイ #27)

つねに「あかるい」存在だったら良いのに、と思う。

学校でも、会社でも、家族の中でさえも、「あかるい」存在であろうと振る舞うけれど、ちょっとしたズレや疲れがあったときに僕の中の「あかるい」は姿を消してしまう。

「ポジティブであることは大事だ。暗い顔をしたら運が逃げる」

満員電車に乗り合わせると、世の中に絶望したような顔をした人たちがたくさんいる。もともと僕は「くらい」人間だったので、一念発起して「あかるい」を取り戻そうと、大学生のときに決めたのだった。

その甲斐あって、僕は最低限の社交性を身につけられたと思う。

だけど、時々、僕の中の「くらい」は顔を出すのだ。

「くらい」は確かに、あまり良いことがない。妻や子どもの前で「くらい」自分を出してしまうと、どうしたんだろう?と心配されてしまう。友人や同僚に対しても同じだろう。普段「あかるい」を出していれば出しているほど、その落差は大きくなってしまう。なので、あかるくなれたら、というのは本心だ。

でも、昼もあれば夜もあるように「あかるい」が休む時間も必要かもしれない。

「くらい」中で、じっと佇み、目を閉じて様々に思考を巡らせていく。

その時間が、だいたいの半分・半分なのは意味があることなのだろう。(日本は特に、位置的に昼と夜の時間が半々になれる)

あかるくなれたら良いけれど、くらく佇むことを否定したくはない。時々澱みながら、流れに身を任せていこう。