鯉煩い(ふつうエッセイ #91)

公園や寺院にある池の鯉問題について。

子どもの頃、鎌倉の鶴岡八幡宮にて、餌を求めて顔を向けている鯉の多さに気分が悪くなった。彼らの顔を凝視してみると、人間の一番醜いような顔で餌を待っている。ああいう風にはなりたくないと思う。

しかしながら、彼らの貪欲さはすごい。

商魂たくましい中小企業の経営者のようでもある。商売っ気のない自分は、彼らのなりふり構わぬ姿勢はむしろ見習うべきだと思うのだが、ちょっと激しすぎだ。

だけど、これはあくまで僕(=人間)の話だ。

「恋煩い」ならぬ「鯉煩い」。

鯉だからこそ見える景色や、鯉だからこそ煩っている些事はあるのだろうか。まあ、あるんだろうと思う。

今日行った公園では、小学生らしき子どもたちが、鯉に向かって「何食べるんだろう?」と実験を繰り返していた。

石を投げたり、葉っぱを投げたり、草の実を投げたり。

若干度が過ぎていたので止めようと思うほどだったが(子どもたちも流石に途中で止めていた)、鯉にとっては、たまったものではないだろう。人間の奇異な視線に晒され続けながらも、道化のように餌を求める。池の中には無数の鯉がいて、満足できる量にありつけるとは限らない。

そりゃ、煩う些事も多かろうと思うのだ。

そもそも、池の水温は、季節によって変わるはずだ。人間の温度の感じ方と違うかもしれないが、夏は暑いし冬は寒いわけで、その都度彼らは我慢しながら水中で暮らしているのだろうか、とか勘繰ってしまう。

そんなことを考えていたら、必死で首(頭?)を伸ばしてこちらを向く彼らに対して「君たちも大変だね」なんて労いの言葉をかけたくなってくる。お互い、頑張って生き抜いていきましょう。