自分の時間(ふつうエッセイ #286)

「自分の時間」って、何だろう?

ふと、そんなことを思った。

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僕のパソコンとか、僕の大学とか、所有格「my」がつくワードは物の数だけある。実際に所有しているのか、貸借の関係にあるのかはさておき、その場における所有者は「自分」であり、「他人」でないことは疑いないだろう。

だが一方で、自分の時間というのは、所有者が曖昧だ。時間の所有という感覚は、僕が知る限り一般的なものではない。

だがあえて、所有としての「自分の時間」について考えてみる。

誰にも邪魔されない時間が、自分の時間だろうか。仕事をしているとき、勉学に励んでいるとき、寝ているとき、家族といるとき……。それらは自分の時間「ではない」のだろうか。

やはり、所有と時間というのは相性が悪そうだ。時間というのは、自分のものであって、自分のものではないのだ。

それに、時間は目に見えない。

手を延ばしても触ることができない。日々、刻々と時間は過ぎていくし、新しい時間と出会っていく。その時間は、他人(というか、その瞬間を生きているすべての人たち)とシェアしているといっても過言ではない。

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他人と時間をシェアしているのであれば、「時間が足りない」という悩みは成立しないかもしれない。

「シェア」ということなので、一時的に、あるいは永続的に、誰かに時間の使い方を支配される(ように感じる)こともあるだろう。というか、それが権力というものの本質なのかもしれない。

そうなると、権力から解放されるにはどうしたら良いのだろうか。

所有としての時間で捉えたとしたら、打開策は見つかりづらい。シェアという観点で考えれば、Aは僕で、Bはあなたで、Cは社会に任せようという気持ちになれるのではないか。

my time、ではなくて、our time。

だいぶ抽象的な話になってきたけれど、とにかく「自分の時間」というものを欲したら、その枠組み自体を疑ってみることにする。