AIライター?(ふつうエッセイ #616)

「ChatGPT」などのOpenAIを使った大規模言語モデルの議論が活発に進んでいる。

やはりビジネスサイドは新しい商機を見出しやすいようで、「いかに早く、新しいサービスを出せるか」で躍起になっている現状だ。この盛り上がりがチャズムを乗り越えていくかは分からない。でも、労働生産性がなかなか上がらない日本にとって、コストカットは悪い意味で「得意分野」のはずで。そんな世間の要請から、ある程度の影響力はしばらく及ぼすのではないだろうか。(一方で、新しいサービスを使う「ハードル」を感じやすい国民性もあるので、意外と話題は一過性に留まるかもしれない)

知り合いの会社も経営者も、「ChatGPTを使って、メディアの記事を書けるようにしたい」と話していた。「人間にしか書けない文章もある」と考える僕とは、当然ながら議論が噛み合うことはない。そもそも僕は、ささやかながら「ライター」として生計を立てている人間だ。僕に敬意を払えと言っているわけではないが、あらゆるライターの職能が一緒くたに語られがちになっているのでは?と残念な思いを抱いている。

そもそもの話だけど、僕自身が、胸を張って「AIライターなるものよりも優れた文章が書ける」と言い切ることはできない。絶対にスピードでは敵わない。元の素材をChatGPTにインプットさせると、そこそこの完成度の文章がアウトプットされていく。商売はあがらないが、「納期、もうちょっと早められますか?」と言われそうでビクビクしている。

先ほど「AIライター」という言葉を使った。

ライターというのは、職業の名前である。AIライティングならば分かるけれど、AIライターとすることで、AIを擬人化させた表現を試みていることが分かるだろう。AIプログラミングやAI小説という表現なら理解できるが、AIプログラマー、AI小説家はという表現は、どこか何かが矛盾しているように感じないだろうか?

「自分の職業は、AIには代替されないだろう」と思っている人たちは、いまや少数派だろう。

「代替されるかもしれないことを前提にしつつ、でも、これだけ頑張っているんだからそう簡単には代替されないだろう」という感覚で、とりあえず今をやり過ごしている。僕は、それで良いんじゃないかと思う。

大事なのは、新しいサービスが出てきたときに「?」と一瞬立ち止まれることだ。

そのプロセスさえ内包されているのならば、サービスにのめり込むべく開発しようとしても構わない。盲目的に「やろう」と決める(決め続ける)ことで、圧倒的な暴力性をはらむことを、僕は何より危惧している。