昔から、俳句や短歌への憧れがある。
短いキャッチコピーをバシッと決められる人も、それはそれですごいと思う。だが、俳句や短歌が持つ日常性とは、商業的に短い言葉に「要約」するような趣とは一線を画していて、そのさりげなさに惹かれるのだ。
俳句や短歌ではないけれど、谷川俊太郎さんは『“ひとり出版社”という働きかた(著・西山雅子)』の中で次のように述べている。
自分の詩の理想型をそのように(道ばたの草)想い描いている。つまり、詩というのは、なにかを伝えるものじゃなくて、そこに存在するものだと思っているのね。道ばたの雑草はなにも意味していないし、伝えようともしないけれど、そこにあるだけで美しいわけでしょう?人が見て、感じる力さえあれば。本もそれと同じでいいと思うよね。だって今もう、どんなにいい作品もストックになりようがなくて、全部フローで流れていくじゃない。
西山雅子(2015)『“ひとり出版社”という働きかた』河出書房新社
俳句には「季語を入れなければならない」というルールもある。
字余りや字足らずが認められているとはいえ、たった17字という制約の中で、これほど豊かな表現が生まれるのはどうしたことか。テレビ番組でも俳句が取り上げられているように、巧拙の差こそあれ、誰もが俳句を詠めるという大衆性も持ち得ている。
キャッチコピーの名手は、大手企業から多額の報酬を受け取れるのだろう。それも生きる上では必要だし、僕自身も「仕事」をする上で、キャッチコピーの提案はたびたびしている。
その一方で、日常の機微を俳句にしたためる行為を続けている人には、全く違った種類のリスペクトの感情を抱く。
俳句というクリエイティブな営み。古くから、日本では「俳句」という創造的な行為が、ずっと愛されてきたのである。