文字変換(ふつうエッセイ #479)

僕のMacBookは、「なにとぞ」と入力し、スペースキーを押すと「何卒よろしくお願いいたします。」と変換される。予め、よく使う言葉として登録しているのだ。

しかし何かの拍子に「なにとぞ」が、「何卒」だけしか変換しないこともあって。うっかりそのままエンターボタンを押すと、「なにとぞ」は、「何卒」として表示されたままになってしまう。

もちろんメールの文末に、「何卒」だけ表示されるだけだと困ってしまうので、いそいそと「よろしくお願いいたします」を打ち込む。その労力は微小なものだが、「なんか、ついてないな」という感を伴う作業だ。

いくら技術が進化しても、予測変換の性能が上がったとしても、変換は100%完璧なものにはならない。「ぼく」は「僕」にしか変換し得ないけれど、こじんは「個人」や「故人」になり、「かんせい」は「完成」や「歓声」や「感性」になる。

そんな文字変換の不完全さに嘆息するけれど、実際のところ、僕個人の処理能力の方がポンコツなわけで。MacBookからすれば、文字変換の不完全さを咎められる筋合いもないのだけど、そういった文句や苦情を受け入れながら、ちょっとずつ、確かに、文字変換の精度は向上していく。

100%完璧なものにはならないけれど、100%に近い完成度にはなっていく。人間とは違う。だけど、その仕組みを整えているのは人間というのが、また面白い。いずれ仕組みを整えるのもAIの役割に置き換わっていくかもしれないけれど、根っこの部分は人間が関わっていく。

少なくとも、シンギュラリティの世界に移行するまでは。

移行した後は、どうなるのだろう。でもやっぱり、僕は、人間の知恵を信じたい。