舞台挨拶(ふつうエッセイ #335)

昨日と今日、立て続けに「舞台挨拶」に立ち会った。

舞台挨拶とは、例えば映画の公開初日などに、キャストやスタッフが舞台に立ち挨拶をすることである。今回はどちらとも、作品に携わった映画監督の想いを直接聴くことができた。

言うまでもないことだが、普段、僕らは作り手の想いを直接聴くことはない。

映画であれば、作品を通じて監督の想いを推し量るのが「普通」だ。もっと深く知りたい場合は、映画のパンフレットやメディアの取材記事などを追い掛ける必要がある。制作背景や制作意図などを知ることで、映画の意義や意味を感じることができる。動画配信のコストが劇的に下がったことで、関係者の「生っぽい声」を直接ファンに届けることも可能になっている。

しかし、その場にいる観客に対して語られる言葉というのは、どんなメディアとも違った響き方をするのではと、この二日間を通じて強く感じた。観客のリアクション、作品を観た後の余韻が残っていることで、監督の「生の声」が引きずり出されているような気がしたのだ。

昨日、今日と鑑賞した映画は、どちらも素晴らしい内容だった。

観客の余韻が醒めない中で、監督は言葉を放っていく。もしかしたら、直接言うつもりがなかった言葉も混じっていたかもしれない。アドリブというやつだ。観客のまなざしが、思わず言葉を引き出していく。そんなセッションを体験することはなかなか叶わない。

もし僕が舞台挨拶のような場に立つとして、どんな言葉を放てるだろうか。立場は違えど表現活動はしているつもりだ。表現を目にしてくれた人の前に立ったときに、僕はどんな言葉を持ち得ているのだろう。

いやきっと、そんなのは想定できないものなのだろう。想定できないからこそ、本当は言ってはいけなかったような言葉も放たれていくのだ。そんなセッションがあるからこそ、直接の対話というものは重宝されてきた。

当たり前のように重んじられてきた価値が、いま、どれほど保たれようとしているだろう。薄い壁を隔てて交わされる会話は、対話の体裁をした別の何かと言えなくもないように思う。

もちろんそれだって、貴重な情報として機能することはある。けれど、直接交わるからこそ生み出される対話を、僕はもっと大事にしていきたい。お互いの心を掴むようなやりとり、そんな場も積極的に創っていきたい。