何か、とか、何だか、とか。(ふつうエッセイ #107)

文章を書くときの癖がある。

「何か」とか、「何だか」とかを、使ってしまうのだ。

これまでずっと気にならなかったのだが、最近、無性に気になっている。というか、無意識で使ってしまう自分に嫌悪さえ抱いている。

何か、何だかを使うということは、その対象をきちんと言語化できていない証左だ。「何=What」ということだけど、その正体を掴みかねているわけだ。

本来であれば、もっとそこから思考を重ねれば良い。

だけど、安易に「何か」を使ってしまえるので、文章はそのまま紡がれていく。後から浅慮に気付いても、「何か」を使った文章は、「何か」という曖昧模糊の状態を前提としているため、別の言葉で言い換えることが困難だ。無理に言い換えても、妙にそこだけピリッとした空気感を帯びて、全体として調子が悪くなってしまう。

文章に、追われているのかもしれない。

時間がない。駄文だったとしても、締め切りまでに文章を提出しなければならないのだ。

理想と現実があり、折り合いをつけるために、ある程度の事象には曖昧さを残そうという意思が生まれる。実際のところ、読者だってピリッとした文章だけを求めているわけではないから、「何か」「何だか」が入っていても受け入れてはくれる。妥当な判断ではないか。

でも、それに安寧としている自分がいる。その姿勢に、僕自身が嫌悪しているんだろうなと思う。

言葉にならない「何か」の存在を認めることは大切だ。無理に別の言葉をあてはめようとしても、そのパズルは正しく完成しないだろう。

だったら、多少妥協しても、完成したっぽく見える形で提出した方が収まりが良い。そもそも、妥協や些事の積み重ねこそが人生なのだから。

だが、僕は抗いたい。

抗った過程で見える光景を受け入れながら、また新しい景色をつくってみたい。文章であれ、絵であれ、写真であれ、映像作品であれ、「何か」に抗い続けなければ成長はない。

僕のいう成長とは、レベルアップとか実績とか、そういう話ではない。円熟に至るまでの、必要条件を指している。抗って、抗って、心を擦り減らしながらも前に進みたい。