はたして、果たして(ふつうエッセイ #264)

昨日のエッセイで、「はたして」という言葉を使った。

最初僕は、「果たして」と漢字表記した。わずかな違和感があり、「はたして」とひらくことにした。ひらくという行為については、以下noteが詳しいので、気になる方は読んでいただきたい。

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「果て」という言葉には、物事の終わりや結論という意味が込められている。

「はたして1時間の空白は、何も生み出していないように思う」

この昨日書いた文章は、自ら書いておいてナンだが、かなり奇妙な表現だとは思う。物事の終わりに感じるような寂寥感を込めたのだが、寂寥感を感じたとしてもそれは物事の終わりを意味するとは限らない、と思い「果たして」でなく「はたして」としたのだ。

有用性に寄与していなかったとしても、それまで世の終わりのごとく絶望していたとしても、「自分」という人間まで終わりにしてはいけない。

だから、ひらいた。

ひらがなでも、漢字でも同じ意味だろうという人もいる。

でも、僕はそこに明確な違いを込めた。そのことを、このエッセイで補記しようと思った。

何の本だか忘れてしまったが、とある作家が本を執筆していたという。文章にピリオドを打ったが、思うところあってピリオドを消した。でも「やっぱり」ということでピリオドを再度打ったそうだ。その作家に言わせれば、その前後での文章はまるで違うものだそうだ。表面的には(というか物理的には)、寸分変わらぬ文章である。でも、作家には違って映るのだ。

そんなスタンスを、一笑に付すことを僕はできない。文章や映像に込められた、作家の試行錯誤は、作家のクリエイティビティに直結するからだ。僕はその行為に等しく敬意を表したいし、その違いには敏感でいたいと思う。

その旅は、はたして終わりがないものなのだけれど。