呼び間違える(ふつうエッセイ #351)

僕は三人兄弟の長男として育ったのだが、昔から不思議だったことがある。

母が、子どもの名前を、よく呼び間違えていたのだ。

三人全員の名前を呼び、ようやく最後に自分の名前が出てくるということも。名前の語感が似ているわけでもないのに、どうして頻繁に呼び間違えるのか僕は疑問だった。

だが親になって分かった。これはもう致し方ないことだ。僕には息子ふたりがいるのだが、毎日のように呼び間違えている。(そのたび息子から不思議そうな顔をされる)

一説によれば、呼び間違えが発生するのは、グルーピングした対象に対してだそうだ。なるほど、それなら、たしかに等しく愛情を注ぐ息子ふたりはそれぞれ呼び間違えてしまう。そこに甥や姪たちの名前は出てこない。甥や姪も愛情を注ぐ対象ではあるが、息子ふたりは常に身近にいるわけで、比べる対象でもないのだがやはり愛情の種類が違うのだろう。

そして思えば、チームメンバーの名前を間違えていた上司もいた。間違えていない上司もいたけれど、先ほどの説に則るのであれば、間違えていた上司の方が「差をつけずに」メンバーに接していたともいえる。いや、まあそれはちょっとフェアじゃないか。間違えない方が良いに決まっているし、間違えない上司がしっかりしている可能性もあるわけだから。

僕が間違えるのは、きまって余裕がないときだ。

朝の支度をしているときは、1分1秒を争うように行動しなければならない。同時並行は当たり前。だから「〜〜やってね!」と伝えるときに、呼び間違えをしている気がする。

あと10分早く起きていれば、こんなに焦って朝の支度をする必要はない。「あと10分」は、睡眠の質に寄与しないだろう。そういえば、しばらく「朝活」もできていないな。

呼び間違えを防ぐには、朝活の再開が適しているかもしれない。風が吹けば桶屋が儲かる的なロジックのような気がしないでもないけれど、とにかく明日から朝活を再開してみようと思う。