「叱る」というふつう(ふつうエッセイ #82)

叱る、怒る、注意する。

コンプライアンスが厳しい昨今は、表立って「叱る」という行為はしづらくなったように思う。かくいう僕も「叱る」のは苦手だ。(そして「叱られる」というのも大嫌いな性格である)

そんな僕だが、過去に2回ほど「叱られる」経験をして良かったと思うことがある。

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1回目は社会人1年目の終わり。先輩から、社内向けプレゼンテーションのダメ出しを受けた。1年間親身になって指導いただいていたのに、それを活かすことができなかった。「こんなんじゃダメだ」と、かなり強く叱られた記憶がある。

しかも、それはメールで連絡がきた。何度読み返しても胸が痛くなるほど。その先輩は普段、とても優しいのにも関わらず。

その人を「叱らせてしまった」という苦い思いは、今も胸に残っている。

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2回目は昨年のこと。レンタカー返却前にガソリンスタンドに立ち寄ったときのことだ。返却時間が迫っていたこともあり、マスクをつけずに料金精算を行なおうとした。ガソリンスタンドの店員さん(年配の方だ)に「マスクしないとダメだよ」と叱られたのだ。

叱られたというより、優しく諭されたような感じだ。

だけど、大人になって「ルール」を遵守できないことが猛烈に恥ずかしかった。と同時に、こういう叱り方を僕は長らく放棄していたなとも思った。

例えば近所の小学生が、下校途中にゴミをポイ捨てしたとき。「ゴミを捨てちゃダメだよ」と僕は言えていない。年齢は関係なく、何か因縁をつけられるリスクを恐れ、事なかれ主義を貫いている。

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前述の通り、「叱る」というのは難しい。

テクニックも必要だし、勇気も要る。タイミングも大事だ。

暴力を伴うものは論外だが、相手にしっくりと理解させるために色々な側面から配慮が求められる。

「叱る」という行為を定常的に行なう必要はないけれど、ここぞ!というときに、きちんと問題を指摘できる人間ではありたいと思う。「叱る」というふつうを考えることは、社会を生きる上での知恵や責務を思い返すことではないだろうか。